第24号 2012.06.01発行
縞板ギャラリー
新品の遊具
いつも犬の散歩で通る公園に、新品の遊具が設置されていました。
以前は、木製のやぐらにステンレスの滑り台が付いた遊具でしたが、木の部分がかなり傷んでいたので「危ないな~」と思っていたところでした。
昔の公園の遊具は、危険を疑似体験できるように作られていた様に思います。
遊具を使って、勢い余ってこけて膝を擦り剥いたり、頭にコブを作って半ベソをかきながら遊んでいました。
でも今は時代が時代ですから、子供の安全が第一です。
新品の遊具をよくよく見ると、滑り台以外の床板は全て縞板が使われています。
カラフルな塗装も綺麗です。
砂の付いた靴で登っても程よいグリッブ感があります。
縞板は、世界の将来を担うJapanese kidsの足元の安全をサポートしています。
社内イベントのお知らせ
芦生の森のトレッキング
今月は社内イベントが無かった為、休日に参加した芦生(あしゅう)の森のトレッキングを紹介します。
芦生の森は、京都北東部の南丹市美山町にあります。若狭湾にそそぐ由良川の源流部に位置し、京都大学の研究林として管理されている森林です。
敷地面積は、4186.6ha 広さがピンときませんが、阪神甲子園球場1000個以上と聞いて、もっと分からなくなりました。
今回のトレッキングは、由良川の支流沿いに設置されていた廃線になったトロッコ用線路の道を片道4.5km往復するコースです。
新緑の季節、川のせせらぎ・河鹿蛙や野鳥の鳴き声を聞きながらガイドの方が草花について色々と説明してくれます。
マイナスイオンがたっぷりある森林浴を満喫し、人間というより、一つの生き物に戻ったような感覚になりました。
今生きている生き物として、この様な森林を後世に受け継いでいかなくてはならないと感じた有意義な一日でした。
社員ブログ
縞板の用途
神戸の元町で買い物の途中で寄った某メーカーの専門ショップで意外な所に縞板が使われていました。
少し見づらいかも知れませんが、地下に降りる階段の柵にメッキの縞板を取り付けています。
小物の落下防止と、縞目の模様をインテリアとしてインパクトを出させているようです。
工場で見るメッキ縞板と違い、ショップの縞板はブルーライトをあてて華やかに見えました。
神戸の元町と言えばお洒落な街と言われています。そこで若者が集うような専門ショップで縞板を見かけ、何か誇らしげに思いました。
実は、写真を撮らせてもらう際、店長さんからスポーツメーカーの商標が分かるような商品/陳列棚等を絶対に入れないようにと言われ、何回も撮りなおしてやっと了承をもらったのがこの一枚です。かなり大変でした。
帰る時ふと思い、店長さんに「この店のメーカーの商標に似ている三本目の縞板もありますよ。」と紹介し営業を試みたのですが、何故かキョトン!?とされ無視されました。
「絶対、三本目の縞板の方がうけるのに!!」とブツブツ言いながら帰路に就いた私でした。
「絶対、三本目の縞板の方がうけるのにっ!!だって〇〇o〇スやで・・・。」
社長のひとり言
社長のひとり言!?
金環日食、私も見ました!
神々しい宇宙の現象。お日様とお月様との重なり。
理屈抜きの有難さでした。
さて、今回は「ルール」というものについてボヤこうと思ったのですが・・
このテーマは難しく、長くなりそうなのでやんぺにします。
昔は「ルールは守らなあかん!」と真正直に信じていましたが、最近は少し疑問を感じていること。
まともに機能しているルールはスポーツくらいのもので、それさえも状況・時代に応じて変化していること。
社会のあらゆるルールが機能不全に陥っているのではないかという危惧・・などなどです。
これについては追い追い「ひとり言」っていきたいと思います。
それはそうと(話はガラッと変わりますが)、最近感じる「自己嫌悪」という代物。
そんなものは思春期か若いうちの世迷言と割り切っていたのですが。どうも復活してまいりました。
例えば二日酔い。
仕事の付き合いか何かで、勧め上手についつい乗せられて飲み過ぎたというなら多少納得もできます。
が、誰に勧められたわけでもなく自分だけで調子に乗って飲み過ぎた二日酔いというのは・・「何してんの?」っちゅう感じでたまりません。
ましてやその上に要らぬ失言でもしていようものならもう最悪。自分が信じられない。(前から時々信用出来ん奴やとは思ってましたが)
わが身をクシャクシャと丸めて成層圏の彼方まで撃ち放ちたい気分ですわ。。
この歳になってこの為体(テイタラク)。
もすこしマトモに、地道に身を慎んで自己を肯定できるようにせんと。・・・もう遅いて?
(余談)
先日、とある美術館で目に留まった言葉があります。
正確ではありませんが、
「美しいもの(そして優れたもの)は目に良い。
美しいもの(そして優れたもの)を見ることは大切である。
それらを見続けていると、そうでない(悪い)ものがわかる。」
という意味の言葉です。
私達は最近どうも美しくないものばかりを見て、それらに囚われている気がします。
もっと美しいもの良いものを見て、より良い見方・考え方をする必要がありそうですね。
特にワタクシの場合は。